【人助けの教育論】「人に迷惑をかけろ」と「人に迷惑をかけるな」正しいのは?

教育論 考察

わたしがまだ20歳くらいだった頃、知り合いのお母さんと教育論でもめた説教を食らったことがあります。

その議題、テーマは突き詰めると

「人に迷惑をかけろ」と「人に迷惑をかけるな」のどっちが正しいか

でした。

これは最近注目を浴びている「インドと日本の教育法の違い」ととても似ています。

わたしが怒られた理由から、どちらが正しいのか考えてみましょう。

 

自己責任と他者責任

自分を責める

知人は成人式のイベントに参加しました。

ただ知人はとてもお酒に弱い体質だったそうです。

わたしは不参加だったため、イベントでの対応や知人の態度はイベントに参加していた母から聞いた話です。

実際に成人式イベントで起きたこと

イベントで「お茶かお酒か?」と質問され、知人はお酒を選びました。

しかしお酒に弱いため、気分が悪くなってしまいました。

ですがお茶かお酒かは本人が選ぶもの。

お酒を選んで飲み、気分が悪くなり「放っておいて」と言った知人。

それに対し母は、その子の性格

  • 人嫌い
  • イベント嫌い
  • なぜ今回参加したのかわからない

……などを知っているからこそ対応に迷ったらしく、結果「放置」したそうです。

すると後々、家に帰ってから知人はめちゃくちゃキレたそうで、いわく

「本当に放置するなんてありえない」

確かに水を運ぶとかどこかに寝かせるとか手段はあったと思うのですが、わたしは

  • 自分でお酒を選んだ
  • 自分で放置を頼んだ

この2点から「自分の選択の結果だし自己責任では?」と考えていました。

知人の母からの説教内容

その件について知人のお母さんと話をする機会があり、あまりにイベント自体やそのときの周りの人たちを責めていたため「自己責任もあるんじゃない?」と伝えたところ、

「あの子は何を言われようが絶対に放置しない」
「人は周りに迷惑をかける。だから迷惑をかけられて当たり前」
「こちらは助ける。だから助けられて当たり前」

と当時「人様に迷惑をかけるな」と教えられていたわたしにとっては衝撃的な理論を展開され、「自己責任」の言葉を撤回されるように求められました。

はるか
はるか

今思えば親御さんに向かって「自己責任」なんて言ったわたしもわたしですね。

 

「人に迷惑をかけるな」の教え

自立

「人に迷惑をかけるな」なんて、正直無理です。

生きていれば誰でもわかるはずです。

生きるだけで迷惑をかけていることだってあります。

ただ、人に迷惑をかけないよう慎ましく生きることが日本人の美徳とされてきた、それだけです。

生きているだけで迷惑をかける「わたし」

わたしは今とても人に迷惑をかけます。

移動は必ず車椅子を押してもらいます。

発作で薬すら自分で飲めないこともあります。

けいれんがひどく、救急隊の男性3人がかりで押さえつけてもらってようやく搬送できる状態になる状態にもなってしまいました。

押さえてもらえなければ今頃、手脚の痣はもっと悲惨だったでしょう

さらにいえば、最近けいれんがひどくなり自分でズボンを着脱できないことも増えました。

つまり一人でトイレに行けないときがあります。

いくらヘルパーさん相手でも「脱がしてください」とお願いするのはまだまだ慣れません。

病気に歳は関係ない、とはいえ24歳です。

高齢者でも老化を認められない人だっているなかで、一人でトイレに行けなくなるにはちょっと若すぎるかなと。

生きていて申し訳ないと謝る友人

難病や障害者の友人も言います。

「自分では何もできないから」
「迷惑をかけるのが申し訳ない」

迷惑をかける頻度の高いわたしたちは、なかなか「迷惑をかけるのもかけられるのも当然」とは考えられません。

ましてや「こっちは助けるんだから助けられて当然」とはとても考えられません。

だって「こっちは助けるられるか」怪しいですから。

ここは健常者と障害者とでの「介助の度合い」の違いが深く影響していますよね。

 

「人に迷惑をかけろ」の教え

協力

「人に迷惑をかけろ」とは積極的に他人に迷惑をかけろとの意味ではなく、「迷惑をかけても気にするな」との意味合いです。

わたしは正直なところ、こちらが正しい気がしています。

【人の役に立ちたい人間心理】迷惑をかけても気にするなの意味

理由はとても単純です。

人間の中には大なり小なり「人の役に立ちたい」との気持ちがあるから

ボランティアなどがわかりやすい例ですね。

人は他人が困っていると「助けてあげよう」と本能的に感じます。

集団で生きることを選択した人類の生存戦略の結果なのか、その人の自由意思の結果なのか。

それはわかりません。

例外:たまにいる「他人に迷惑かけるなよ、迷惑だろ?」と、自分本位で人助けなどには一切関心のない人。

こういう人は今現在自分のことで精一杯な人です。

こういう人についての考察は今回の本旨から逸れ過ぎるので一旦控えます。

【当たり前と思いやりの違い】必ず迷惑をかける前提での意識の差

生きている以上、人はどこかのタイミングで誰かに必ず迷惑をかけます。

それをいちいち気にするのか?

気にしていると病気になります。

はるか
はるか

少なくともわたしはなりました。

「迷惑なんてかけるんだから、かけられたときに助けてあげればいいじゃん」

とても素晴らしく聞こえます。

そして実際にとても素晴らしい心がけです。

しかしだからといって「助けてあげるんだから、助けられて当然だよね」と思えるでしょうか?

はるか
はるか

わたしは思えません。

 

「迷惑をかけたときに感謝する」中間点

自立しつつ協力

ところでわたしは最近、

  • エレベータなどで「開」を押してくれる
  • 先に乗り降りさせてくれる
  • せまくても車椅子の通るスペースを作ってくれる

などの行動をしてくれた人に対して「すみません」ではなく「ありがとうございます」と言うようにしています。

謝罪される心理

「すみません」は本来、謝罪の言葉です。

意識的か無意識的かは知りませんが、それを「助けようと思って行動した」ときに言われると、

「自分は何か謝られるようなことをしたっけ?」

と無意識下でも思います。

結果、相手は「真顔」で「すみません」を受け取ることになります。

言った側からしても、相手に「すみません」と言ったにも関わらず真顔や無反応で返されてしまいます。

感謝される心理

そもそも「助けよう」として相手が行動した結果自分が「助けられた」のなら、自分のするべきことは「感謝」ではありませんか?

少なくとも謝罪ではないでしょう。

「日本人は〜」とはよく言いますが、わたしも日本人は謝り過ぎだと思います。

社交辞令としての「すみません」が多い。

つまり

「すみません」が本来「謝罪」の意味の言葉であることを忘れている

その結果の「すみません」の多用、濫用がひどいです。

ただ人は感謝されるほうが嬉しい生き物です。

「ありがとうございます」と言うと相手は微笑みや会釈、人によっては「気をつけて」などの気遣いの言葉までかけてくれることがあります。

 

【謝罪か感謝か】受け取って嬉しいのはどちらか?

気持ちが良い

社交辞令でよく聞く「すみません」より、感謝の言葉のほうがきっと嬉しいです。

「良いことをした」と感じてもらえるはずです。

少なくともわたしが助ける側なら、謝罪されるよりも感謝されるほうが嬉しいです。

はるか
はるか

その後も1日「良いことをしたな~」と気分よく過ごせます。

わたしは

  • あなたの行動で助かりました
  • あなたの行動は素晴らしいものです誇ってください
  • どうかわたし以外にも同じような人がいたら同じように助けてあげてください
  • あなたがこのあと良い気分で過ごせますように

など書ききれないくらい大量の意味を込めて「ありがとうございます」と言います。

【アウフヘーベン】「迷惑はかけて当然」と「助けられて感謝」の昇華

ここまでくるとわたしの結論は見えているでしょう。

わたしは

  • 人に迷惑はかけて良い
  • ただし助けてもらったら感謝しろ

と、「我が家訓」と「知人の家訓」の中間を取ります。

はるか
はるか

わたしの大好きなアウフヘーベンです。

【アウフヘーベン:ヘーゲルの提唱した弁証法で用いられる手法のひとつ】

A案があります。

対立するB案があります。

どうにかできないものか?

A案とB案とをアウフヘーベン(合体・昇華)して、どちらよりも良いC案を作ろう!

参考;海老澤善一,ヘーゲル論理学と弁証法,2016

簡単にいうとこんな感じのものです。

我が家訓の「迷惑をかけるな」は不可能です。

ただし「助けてもらったら感謝しろ」は、わたしにとって当然です。

というか「助けてもらったのに感謝しない」のが、厚顔無恥すぎて無理です。

わたしにはできません。

知り合いの家訓の「迷惑をかけろ、かけても良い」はとても素晴らしいです。

しかしだからといって「自分が助けるなら助けてもらっても当たり前で、それに感謝する必要などない」には賛同できません。

【自他の分離】自分がすることと自分がしてもらうことはまったく違う

自分と他人とは違います。
自分が相手を助けることと、相手が自分を助けることは別問題です。

自分と他人とを一緒、同一に考えると様々な問題が生じてきます。

はるか
はるか

特に「人助け」は、エレベータのボタンくらいならあまり問題にはなりませんが、「本当は自分が助けてほしい」「助けてほしかった頃には助けてもらえなかった過去の心の傷を癒やすために優しくしている」…など、心理学的に多くの意味を含むものです。

気安く感謝の言葉を口にすると「じゃあお金ちょうだい」とは、海外中心の詐欺として往々に起こります。

日本でもたまに起こります。

しかしそれでもわたしは、

  • 人助けは簡単にできない
  • 勇気のいる行動だ
  • ときに自分を犠牲にしてしまう行動だ
  • 自分の時間を相手に渡す行動だ
  • 相手のために自分の人生の一部を使う行動だ
  • それでも相手を助けたいと思ったのだ

これらは決して「当然」として片づけられるべきではなく、きちんと感謝されるべきことだと考えています。

みなさまはどう思いますか?

 

いただいたコメント

「コメントを掲載しても良いですか?」に「はい」を選んでくださった方のコメントを掲載させていただきます。

はるか
はるか

コメントありがとうございます!!

僕は他者に何かをしてもらった時、必ずと言っていいほど「すみません」と言ってしまいます。 「すみません」「ごめんなさい」は最早口癖になってしまっています。 何かあれば、すぐに謝罪の言葉が口をついて出てしまいます。 褒められても「褒められる様なことはしてない」「そんなことない」と言ってしまいます。 頭では分かってるんです、「ありがとう」と言いたいんです。 けれど無意識に、それらの言葉が口をついて出てしまう。 「ありがとう」と言おうとはしているのですが、その一言がとても難しい。 でもこの記事を読んで、難しいからこそ、「ありがとう」を言えるようにもう少し頑張ってみようと思いました。 なので、少し勇気をだしてはるかさんへ、「ありがとうございました」。
初めてご意見させていただきます。 はるかさんの話を聞きながら、人と人の繋がりをご自身の障害を通して、いかに大切に考えられてきたかが、話を通してわかり、自分を恥じるばかりです。その通りだと思います。 本当の意味でのノーマライゼーションやバリアフリーを考える上で、健常者も障害を持つ方もそれぞれ発言する心の立ち位置が近くないと、「してあげた。」や「するべき。」という発想に至るのでは無いかと思います。今話題の車椅子の方は、障害を持つ方の代弁者として立ち位置が高すぎて、協力者に対して高圧的な発言態度を繰り返しました。これでは理解が進むわけはなく、結果的にその態度が非難されると、身内でハード面や対応面で周囲を責める。 その態度を責める人は、発言する人の人権を侵害するまで言ってる始末。 物事ははるかさんのおっしゃる通り、単純ではありながら曖昧で高等なお互いの心の機微を、お互いいたわり、感謝する精神だと思います。 私の座右の銘に「自未得度、先度他」という言葉があります。皆さんそういうあり方なら、共生社会はより成熟するものと思います。 私はまだまだですがw
ほんのちょっとしたことはありがとう 自然に出ます けれど、水を飲むように空気を吸うように病院へ行くことは、私とて嫌々ながら私にとって必要な当然なことで、その事にたいして、私は誰にも感謝したくなく、当たり前というのは、本心です。 私が通院できること治療できることは、極当たり前のこととはしたいのです。それによって、死にたい人も存在することによって、生きていてあげてもいいよと思えるかもしれないし。頼まないと感謝しないと通院も難しい社会では、くじけそうです。

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