
わたしなんて生きてる価値ない…
そう泣き叫んだときに救ってくれたのは、悠さんでした。

あなたは価値がないと生きていけないの?
「当事者カウンセラー」であるわたしは、ときに深く悩み沈み込みます。
それを突き放すようにも聞こえる冷静さで救ってくれるのが悠さんです。
今回わたしは悠さんの言葉にとても深く納得しました。
生まれてきたのは素朴な疑問でした。
価値はすべて変化する価値観によるもの
そもそも物の価値というのは時代によって変化します。
その人の価値観によっても変化するものです。
わたしが価値を見出せない壊れたパソコンは、
- 発展途上国などで鉄くずを集める少年少女
- 半導体不足に悩んでいる企業
などにとっては資源として大変な価値をもちます。
わたしが価値を見出せない、あまり好きではない絵画は、好きな人にとっては何十万円何百万円も出してまでも手に入れたい、価値のあるものになります。
生きている間には認められなかったゴッホの絵も、今となってはお宝になっています。
時代により、見る人により、価値は変化する
これが「価値」の本質です。

ならどうしてわたしは生きている価値を、生きるための価値を求めているのだろう?
そんな価値を今すぐに求めるのは、とてもすごく不毛なものに感じました。
価値がないものは存在していてはいけないのか

価値がないものは存在していてはいけないの?

違う気がする……
気分の沈みに沈みきったわたしはすぐに断言できませんでしたが、違和感はありました。
だって台風で大荒れの地域にわざわざ飛んでいくレポーターとか、わたしにとっては無意味なもの・無価値なものがこの世にはあふれているじゃないか。
わたしにとっていらないものなんて、この世にあふれかえっているじゃないか。
価値のないものは「存在して良い・悪い」の話じゃなくて「存在している」んだ!
なぜなら、価値は主観のみで決まるから。
人間が生きる価値を求めるのは
人間はきっと元々空っぽなのだと思います。
皮膚のなかに内臓が詰まっているとかいう体の構造とは別問題として、心が空っぽなのだと思います。
それをきっと他の人との関係で埋めようとしているのだと思います。
他人と関わることで友人関係や恋愛関係などさまざまな関係を築いていって、そのなかでたくさんの感情を味わうことにより、自分という人間をつくり上げていっているのだと思います。
だからこそ、
- 交友関係でつまずいたとき
- 満足な交友関係が築けなくなったとき
などには、自分自身に対して価値を求めてしまうのでしょう。
他人との関係で心を埋めることができなくなってしまったから
その代償行為なのでしょう。
ケンカなどで他人との関係から「価値」を得られなくなったとき、自分自身との関係から「価値」を得ようとしているのです。

たしかに他の人がいなくなったら、もう自分しかいませんよね。
自分が自分の価値をつける
自分自身という人間に価値があるかどうか、多くの人がわからないのではないでしょうか。
わたしにもわかりません。

もちろんわたしは元気なときには自分自身に価値があると信じていますが、体調を崩すとどうしてもやっぱり「自分自身に生きてる価値なんてあるのかな」と疑ってしまいます。
でも
と悠さんは言います。
そしてわたしは
そう思いはじめました。
自分に価値をつけて生きる
わたしはメンタルが頑丈とはとても言えません。
ただ悠さんとわたしとのこんな会話が、わたしと同じように「自分の生きる価値について悩む人」にとって何かヒントになればいいなと思っています。
そもそも自分の生きる価値は自分でつけるものです。
他人に決められるものではないし、もう生まれてしまったことは変えられません。
なにより、価値は主観で決まります。
それなら、
「自分が生きていることには価値がある」と自分が思うこと
が大切です。
それこそが、
「自分は生きていていいんだ」と自分を許せること
という、胸を張って生きることにつながっていきます。
どんなに自分には価値がないと思っていても、自己暗示で「自分には価値がある」と思うようにしてください。
まずは「自分で自分に価値をつける」ことが第一歩です。
そしておそらくそれが「自信をもって生きること」へつながっていくのです。
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